feeling for beauty


「遊星、何か手伝おうか?」
一昨日、アジトに新しい顔が増えた。
遊星が声がした方を見ると、そのニューフェイスが良く分からないものを持って立っている。
「…、何を持っているんだ」
「あ、これ?いやぁ、あたしも良く分かんない。元々は食べ物だったはずなんだけど」
「…」
苦笑するに遊星は『食材を無駄にしたな?』という無言の圧力を掛ける。
「ごめんって。もう触りません。ラリーが上手に作ってたからあたしも出来るかなーって思ったんだけど、機械のようにはいかないわね」
その食べ物の残骸をゴミ箱の中へざらざらと落とし、皿を机の上に置く。
本当にあれは一体何の成れの果てなのだろうか。
遊星には分からなかったし、確かめる為に口に入れる勇気も無かった。
「あたしはやっぱ機械触ってる方が性に合ってるかな。ね、遊星のDホイール触らせてよ」
いそいそと近づいてくる
未完成のそれは彼女の興味をとても惹くらしい。
「あーここのパーツ欲しいわねぇ…」
覗き込んだがぼそっと独り言のように呟いた言葉を遊星は聞き逃さない。
「…本当に分かるんだな」
「あ、女のくせにって思ったでしょ。でも残念ながら分かるのよね、これが」
楽しそうに機構に触るを止める理由も無い。
それに他人の意見は新鮮だった。
まさかこうやって誰かとDホイールの仕組みや中身のことを話す日が来るなんて。
「嗚呼、それにしても遊星は発想が素敵ね。あたしこの機構は考え付かなかった。自分で考えたの?」
「……ああ」
そういうことを褒められるのも、新鮮で。
遊星は照れたように視線を逸らす。
「この辺ちょっと芸術品かも!こういうの好きだわー」
「…」
あまり褒められるとくすぐったい。
遊星は熱くなった頬を隠すようにに背を向ける。
しかしはDホイールの中身に夢中で気付かなかった。
直後、近づいてくる小さな足音がして、反射的に二人はそちらの方に視線を移す。
小さな人影。
ラリーである。
「あ、おはよう!、遊星!」
「あら、ラリー。おはよう」
、すごく元気になったね。良かった」
「うふ、おかげさまで」
は一昨日増えたニューフェイスだが、彼女を見つけてきたのはラリーだった。
何かとそういうのを呼びがちなラリーだが遊星は然程気にしてはいない。
寧ろを見つけたのは、今や功績と言っても良かった。
理由は言わずもがなな彼女の機械知識である。
「一昨日はぼろっぼろの姿だったけど、ちゃんとしたらって美人だね!」
「あっは!ラリーったら将来有望ねぇ。でもダメ、その気も無いのにそんなこと言ったら危ないから。女は結構簡単に本気になるのよ。気をつけてね」
「変なことを教えるな。ラリーはまだそんな歳じゃないだろう」
げんなりした表情の遊星には笑ってみせる。
「歳なんて関係ないのよ?女は褒められれば結構簡単なんだってば」
覚えておいて損しないわよ、と綺麗に笑いながら言う
大概な子供扱いだが間違ってはいないかもしれない。
遊星から見ては、如何見てもある程度慣れた年上の女に見えたから。



、これ分かるのか」
「分かるわよ。っていうかあんたたちは分からないの?」
「全く」
「はぁ…これじゃ遊星も難儀するわけだわ」
遊星の仲間と改めて話して分かったが、Dホイールを作成しているのは実質遊星一人だった。
部品の調達は手伝っているらしい。
しかしそれだけでは…。
はふと考える。
行き倒れを助けてもらったお礼に、ある程度恩返ししたら出て行くつもりだった。
だけど。
「ねぇ、遊星」
「何だ」
「あたし、これが出来上がるまでここにいてもいい?」
の申し出に遊星は少しだけ驚いた表情をする。
一昨日彼女はすぐに出て行くと言っていたから。
それを頭の何処かで寂しいと思い始めていた遊星は、戸惑いの表情を浮かべた。
「…遊星の作品に興味が沸いたの。出来上がった瞬間を見たくなったわ」
「別に…構わないが」
ということは、あれが組み上がるまで彼女はここにいると言うことか。
まだしばらく偏った趣味の話を出来るのか。
頭が時間を掛けて理解していく。
がしばらく傍にいるということを。
ぶわりと感情の波が溢れるのが分かった。
多分自分は猛烈に喜んでいる。
がここにいるという事実に。
そんな嵐のような感情を何でもないような顔で押さえ込む遊星には笑いかける。
「ありがとう!勿論何でも手伝うわ。機械の趣味も合いそうだし、寧ろ手伝わせてね」
「……ああ」
笑顔を向けられてじんわりと頬が熱を持つ理由を遊星は見つけることが出来ない。
それでも戸惑いながらそれを必死で隠した。
そっけない一言にはやや心配になるが、遊星は嫌だと思ったらきっぱり否定する人間だということはもう分かっていたのでとりあえず受け入れられたことを理解する。
どうせふらふらとねぐらも定めずうろついているだけの浮浪者のような自分だから。
暫定的なものであろうと巣があるというのは安心できる。
根が生えてしまわない程度にしないと危ないことになりそうだけど…とは遊星の横顔を見ながら思った。
驚くほど趣味が合い、喋れば喋るほど中身が可愛くて仕方のない遊星。
彼は気まぐれで触れられるような安い人間じゃない。
でも薄っすらと芽生える感情が、果たして彼を想うものなのか。
それとも自分の寂しさを紛らわせたいだけなのか。
盲目的に恋を信じられるほど、はもう子供ではなかった。





そのまま、少しの日数が過ぎた。





「くしゅっ」
冷えた風が通路を吹き抜けていく。
晩夏に差し掛かったサテライトの夜は寒かった。
しかし流石に女性をそこいらで寝かすわけにもいかなくて、遊星は寝床をに譲っている。
作業が一段落すると、遊星はが寝床に入ったのを見届けてから、ジャケットを着込んでアジトを出て行くのだった。
何処かで風を凌いでいるのだろうと想像する。
かくいうも、もう夜は半袖ではきつくて、遊星が貸してくれたジャケットを羽織っていた。
と、言うよりも着の身着のままだった彼女に替えの服など無かったから、二日に一回は遊星の服を着ている。
「遊星…今晩は、寒いわね」
「そうだな。…ああ、服が足りないのか?」
「や、そうじゃなくて」
着ているものを脱ごうとする遊星を慌てて止める。
これ以上遊星の服を取るつもりなど全くない。
「あの、あたし気にしないから…」
「何をだ」
「うん、あの…気にしないから、一緒に寝ない?遊星何処で寝てるか知らないけど…そろそろ体壊しちゃうわ」
「…っ」
思っても無かったの誘いに遊星は驚いた表情を見せた。
珍しい。
普段は驚いても結構隠してしまうのに。
そんなに衝撃的な発言をしたのかとも遊星の反応にちょっと驚いてしまったほど。
「…別に、がそんなことを気にしなくて良い」
「良くないわよ。あんまり寝てないでしょ?分かるわ、しばらく一緒に生活してるんだから」
「…」
「じゃあ…じゃあ、こうしましょう。交代で寝るの。3時間したら起こすから、遊星先に寝なさい」
「…嫌だ。起こさないつもりだろう?」
まあ多少長めに寝かそうかと思っていたは一瞬答えに詰まる。
遊星は話しにならないとでも言うように首を横に振った。
それが、少しカチンを来た。
このアジトは遊星のものなので、遊星が如使おうと自由である。
だから、間借りしているだけの自分など何かを意見する立場にはないだろう。
それでも、何だかイラっとしてしまって。
「別にあんたみたいな子供と何かするつもり無いわよ。興味も無い。だから気にしないって言ってるの。いいからこっちに来なさいよ」
遊星の腕をひっぱってベッドの上に無理矢理座らせる。
突然のの行動になすがままの遊星。
しかし電気を消し、隣に潜り込もうとするを見て、その肩を掴んだ。
「何?」
不機嫌そうなの声に少しだけ困った顔をして、遊星は溜め息を吐いた。
「ダメだ、。俺は…」
「…犬よ」
「え…?」
「犬と一緒に寝てるって思えばいいのよ。っていうかベッドから出て行ったらあたし何処までも付いてって連れ戻すからね」
「…」
ならやりかねないだろう。
根本的に似た者だ。
主導権はアジトの主である遊星が握っているが、もある程度我慢できない物には嫌と言う性格だ。
壁際に設えたベッドの、奥に詰め込まれた状態の遊星ではを起こさずに移動するのは難しい。
遊星は深い、本当に深い溜め息を吐き(殆どへの当て付けである)諦めたようにに背を向けてベッドの中へ潜り込んだ。
久しぶりのそこはの存在のおかげで狭くもあり暖かくもあった。
に指摘されたとおり、あまりきちんと寝ていなかった遊星は泥に沈むように眠気に襲われる。
泥濘の睡魔が優しく誘うままに背中の温もりを意識する間もなく遊星は瞬く間に意識を手放した。
「…やっぱり、ちゃんと眠ってなかったのね」
すぐに寝息を立て始めた遊星の背中にはぼそ、と呟いた。
はっきりと遊星の体調が分かったわけではなかったけれど、日中時折ぼんやりしているようだったから恐らくそうだろうと踏んでのことだったが。
真っ暗な静けさと他人の温もりが優しくにも微睡みをもたらす。
ああ、誰かとこうやって体温を分かち合うのは久しぶりだ。
じわりと懐かしくもおぞましい記憶を呼び起こしてしまいそうになり、は瞼を閉じた。
眠ってしまおう。
眠ってしまえば分からなくなる。
孤独も、空虚も、忘我の彼方だ。
やがて遊星のアジトからは二人分の寝息が漏れ聞こえ始める。



もぞり、と何かが蠢いた気がして遊星ははっと目を覚ました。
急激に覚醒したから軽い眩暈を感じる。
ここは何処だ。
ああ、そうだ、今晩はにベッドで眠れと言われたんだった。
道理で暖かいと思った。
晩夏の冷えた夜なのに、少し汗をかくくらい暖かい。
ふと、何故こんなにも暖かいのかを遊星は理解する。
「…っ、…」
きつく腰に回された腕。
背中に押し付けられたの体温。
彼女が後ろから抱きついているのだ。
それも、かなりしっかりと。
意識した瞬間、遊星は自分の体温が跳ね上がるのを感じた。
どくんどくんと心臓が早鐘を打つ。
彼女は全く自分に興味が無いと強く言い放ったけれど。
だからといってこんなに無防備に抱きつくなんて、安心しすぎるにも程があると思う。
例えばに興味が無くとも、遊星の気持ちはまた別のものだと言うのに。
僅かに身じろぎをした遊星に気付いたのだろうか、の腕に力が篭る。
逃げようとする何かに追いすがるように更に遊星を強く抱き締めた。
「…っ!」
背中に当たる柔らかい感触。
確認せずとも何か分かる。
遊星は激しくなる心臓を抱えて浅い呼吸を繰り返した。
無防備な
隣で男が狼になろうとしているのも気付かないで。
「……」
どきどきしながら遊星は腰に回されたの手を遠慮がちに握った。
「…ン」
小さくが声を出す。
…嗚呼、可愛い声を出すんだな。
先程は遊星を子供と言ったが、の手は思いの他小さくて柔らかい。
これだけで気を失いそうな程の動悸がする。
隠れていけないことをやっているという緊張の所為だと遊星は思った。
だけど、止まらない。
「…っ」
ゆっくりとの手を外す。
この温もりが失われるのは寂しいが、態勢を変えるにはこうするしかない。
が起きてしまうのでは…と思いながらもするりとの腕から抜け出した。
幸いは目を覚まさない。
…」
もぞ、と彼女の方へ態勢を変えた。
部屋は暗くはっきりとの顔は見えなかったけれど、眠る彼女は自分と同い年かそれより下にも見えて不思議だった。
普段しっかりしているだけに、無防備な寝顔がを幼く感じさせるのかもしれない。
眠るの唇にそうっと指で触れてみる。
「ん…、ん」
僅かに眉を顰めたものの目覚める様子はない。
ふよふよと指先を弾力を確かめるように動かしてみたが、やはり微動だにしない
「…」
何度か繰り返した後、指を引いた遊星は無言のままに顔を近づけた。
「……!」
息を詰めて本当に触れるか触れないかの。
掠めるほどの軽い口づけだったが、これ以上ないくらい体が昂ぶったのが分かる。
頬が熱い。
眩暈がするほど呼吸も浅い。
「…死ぬかもしれない…」
苦しくなるくらい、遊星はが好きだった。
傍にいる彼女は毎日無自覚な仕草で遊星に自覚させる。
会話が楽しくて、作業に張り合いが出て、でも時々見せる愁いの表情がを別の世界に連れて行くとき、遊星はどうしようもない嫉妬を覚えた。
いつかきっと別れが来る。
はDホイールが出来上がるまでいると言ったが、その後はまた遊星の知らない世界に帰っていくのだ。
…。
嫌だ。
嫌だ嫌だ。
だけどを繋ぎとめておく方法なんて知らない。
今までそんな気持ちになったことも無い。
芽生え始めた幼い恋心が遊星を苦しく苛んだ。
隣で静かに眠るに視線を這わせる。
例えば、今ここで無理矢理にでも想いを遂げたらどうなるのだろう。
「…」
いや、出来やしない。
そんな無謀な勇気は無い。
失望の視線を受ける覚悟なんか無い。
何より悲しい顔をさせたくない。
だって、笑っているが好きなんだ。







後遺症だと思った。
の目覚めはあまり良い物ではなかった。
夢を見た。
古い記憶が塊になったようなグロテスクな夢である。
ぼんやりとするに遊星が朝食を持ってきた。
「あ、ありがとう…。何?サービス良いわね」
余計な一言付きで遊星から皿を受け取る。
とはいえこのサテライトである程度まともな食事が摂れる方が珍しい。
乏しい内容だが、遊星が自分の分を分けてくれていると思えば、感謝こそすれ文句など出ようはずも無い。
「…昨日は、良く眠れたか?」
「んーそれが超夢見悪くて。遊星こそどーよ。昨日はソッコーで寝てたけど」
「…まあ、ある程度は」
「そ。まあそこそこ元気そうだし今日は作業がはかどりそうね」
の言葉に遊星は気分が重くなる。
作業がはかどれば、それだけは早くいなくなるということだ。
「……」
「なぁに?」
あっという間に皿を空にしたが立ち上がろうとするのを遊星は呼び止めた。
でも何を言えというのだろう。
行かないで欲しい?
ずっと傍にいて欲しい?
の何者でもない自分が、の自由を縛る権利など何処にも無い。
「いや、何でもない」
「…、そう?」
視線を移す遊星は殊更そっけない態度では何か悪いことをしただろうかと首を傾げた。
何となく愁いた雰囲気の遊星に思わずどきりとする。
そろそろ、危ないかもしれない。
気付けばは遊星の横顔を追っていた。
しっかりと正面から見詰めることが出来ないのは、大人の悪い癖だろう。
しかし、Dホイールに真剣に向かう遊星の眼差しが美しいから、しょっちゅう眺めてしまうのだ。
いや、寧ろ見惚れてしまう。
昨日も危なかった。
隣で眠る遊星に仄めかされそうになる瞬間があったけれど、必死で堪えた。
二人で体温を分かち合い、気持ち良くなれたらどんなにか素晴らしいだろう。
そして行為の最中にはあの美しい視線を自分に向けて欲しい。
射抜くほどに見詰められたい。
密かに熱く震える心を抱えは視線で遊星を追いかけていた。
やはりそろそろ、潮時なのかもしれない。
しかしDホイールが出来上がるまでは遊星を手伝おうと思っているから、早く仕上げてしまわねばならないだろう。
どうやら遊星には『どうしてもこの速度を出さねばならない』という拘りのボーダーラインがあるらしい。
今のDホイールも走るには走るが、遊星の理想とするスピードは出ないのだ。
しかし、それもかなりの目処が立っていると言えた。
昨日遊星を無理矢理にでもベッドで寝かせたのは、どうしても作業の効率を上げたかったからでもある。
これ以上一緒にいたら自身が遊星を独占したくなってしまう可能性があった。
気の合う相手というのは人生を駆け抜ける上で本当に貴重な存在だ。
実はもうかなり手放すのが惜しくなってきている。
Dホイールさえ完成してくれればいつだって出て行く準備は出来ていた筈なのに、その決心が鈍ってきた。
「…いけないわ」
遊星は自分のような安い人間が気軽に触れられるような相手ではないと言い聞かせる。
若い純粋な情熱を秘めた彼を、土足で踏みにじりたくない。
はふうっと溜め息を吐いた。
ああ、痛いくらいに自覚する。
こんなにも彼が好きなのだ。
だけどだからこそ。
早く、遊星の前から消えてしまわなくては。
食べた食器を片付けながらは昨夜の夢を思い出す。
過去はおぞましくてグロテスクだ。
放浪者になった原点でもある。
途中まではそんな恐ろしい夢を見ていた。
が、ある時点でその夢がふわっと消えたのを覚えている。
「あれ、何だったのかしら」
何故か途中から遊星にマシュマロを唇に押し付けられる夢に変わった。
どんな過去の象徴なのか分からないが意味不明である。
「キスしたいとか思ってんのかな、あたし…」
だとしたら大概危険だ。
久しぶりの人肌の温もりを感じたからといって、そんな夢を見てしまうほどに遊星との関係を欲しているならもう姿を消すべきだ。
ちろりと遊星を見た。
彼はいつも通りDホイールにあの真剣な眼差しを向けている。
やはり熱中するその蒼い目は美しい。
きゅうんと胸が熱くなる。
ああ、本当に焦がれるという現象は起こるのだな…と不思議な気持ちになった。
年甲斐もなく淡い恋を感じながら、はゆっくりと遊星に近づいていく。
そんなに気付いた遊星は顔を上げた。
「どうしたんだ?」
「ん…、あの、食器洗い終わったから…手伝おうかな、って」
「そうか。じゃあ昨日の続きの…」
「あの、遊星」
説明をしようとした遊星の言葉を遮り、は俯きがちに視線を彷徨わせた。
「何だ?」
「…あたし、そろそろ出て行くわ」
「…え、?」
遊星はの言葉にすう、と血の気が引くのを感じた。
一瞬が何を言ったのか理解できなくて。
「来たときよりは大分走るようになったしね。…長く、いすぎちゃったし…」
これ以上遊星を好きになる前に、お別れをしなくては。
「…何か、不満があるのか…?」
「不満なんか、ないわ」
寧ろ、色々犠牲にしてくれたのは遊星の方だ。
増えた食い扶持の為に自分の分を削ってくれていたのも知っている。
「…まだ、Dホイールは出来上がっていない」
「でも、かなりまともに走るようになったわ」
それは遊星も分かっていた。
多分もう少しで遊星の理想のボーダーラインをクリアするだろう。
がいても、いなくても。
「……出て、行きたいのか…?」
「というか…元々そういう約束だし…ね」
出て行きたい訳ではない。
だけどこれが一番良い。
気まずそうに視線を逸らす
それは今正に遊星の手から零れ落ちようとする黄金の砂も同然だった。
小さな音を立てて流れ去ろうとしている。
追いすがる遊星の気持ちに気付く事もなく、その細い指はすり抜けて行こうとしている。
普段の遊星ならそんな感傷すら飲み込んで諦めてしまったろう。
サテライトという荒廃した世界は子供に絶望と諦めを根強く植えつけてくる。
しかし、遊星の理性がの言葉を理解するより早く、遊星の本能が遊星の一番欲しいものの端を掴んでいた。
「行くな!…っ」
滅多に出さないくらいの大声でに叫んだ遊星は、の腕を掴むとその腕の中に強く抱き寄せる。
予想外の遊星の行動には抵抗する間もなく遊星の胸の中へ収まっていた。
「ゆ、ゆうせ、っ!?」
「行くな…。、行かないでくれ…」
「…っ、遊星…?」
震える腕が、それでもしっかりとの腰を抱いている。
息が止まるのではと思うほどのきつい抱擁には一気に頬が熱くなった。
「……っ、俺は!…俺は…が好きだ…!」
「!」
肩口に埋まった遊星の顔を見ることは出来ない。
が、おかげで助かった。
今の真っ赤になっているであろう顔を見られなくて済む。
…、俺の前から…いなくならないでくれ…」
切ない懇願には心臓が跳ね上がった。
「ゆ、うせい…」
上擦る声。
…」
「……遊星、…ダメよ、あたしなんか」
「ダメじゃない。俺はが良いんだ」
「そんな、だってあたし…」
わなわなと唇が震えるのが分かった。
何故だろう、涙が出そうだった。

静かに遊星は名前を呼ぶ。
「お前の気持ちを…教えて欲しい。俺には全く興味ないのか?」
「…それ、は」
頭の中で遊星の言葉が大きく反響した。

遊星が好きと言ってくれている。

出て行かなければいけない。

遊星が選んでくれた。

土足で踏みにじりたくないのに。

…。

今ここで遊星の手を振り解けば、この関係は終わるだろう。
終わってしまうだろう。
この瞬間に全てがに委ねられたといえる。
掴むも手放すも、この一瞬だけなら好きなほうを選べるし、選ばなかった方は永久に選べない。
はおずおずと震える手で、遊星の体を抱きしめ返す。
「…っ、あ、あたし…あたしも、ね…遊星」
「ああ」
「遊星が…好き…。興味ないなんて…全部、嘘よ…」
「ああ」
「本当は、本当はね…ずうっと遊星を見てたの。無意識に、追いかけてたの」
「それは…全然気付かなかった」
気付いていたらこんなに悩むこともなかっただろう。
この瞬間がもっと早く訪れていたに違いない。
ゆっくりと遊星が体を離す。
ももう視線を逸らしたりしない。
嗚呼、あの眼差しだ。
を見下ろしているのはあの美しい眼差し。
いっそそれに射抜かれて死んでしまいたい。
ゆっくりと遊星が顔を近づけてくる。
はそうっと目を閉じた。
ふわりと遊星の唇が重なる。
触れるだけの優しいキス。
不思議な事に、夢の中で遊星に押し付けられたマシュマロと同じ感触がした気がする。
もしかしてあの夢はこのことを示唆していたのだろうか?
そんな馬鹿な。
今の軽いキスだけで猛烈に情欲を煽られた遊星が恐る恐るに手を伸ばそうとした時。
「何か、変なの」
絶妙なタイミングで訝しげに言われ、遊星はぴたりと手を止めた。
「何がだ」
「うーん、何だろ。遊星のキス、夢の中で遊星に押し付けられたマシュマロと同じ感触がする」
「え」
ぎくりと遊星が硬直する。
多分あの瞬間のことだと瞬時に理解した。
「…何、その反応」
「別に何でもない」
「嘘。ちょっと変な反応したじゃない。あんたまさか寝てるあたしに何かしたんじゃないでしょうね」
「していない。…それに、例えしていたとしても結果的にこうなっているから問題ないと思うんだがあ痛!」
「問題あるに決まってるでしょ!」
は遊星の頬を抓る。
そこはそれ、遊星も結局は若い男ということか。
歳不相応の落ち着きと冷静さを持つ彼はもっと紳士的だと思っていたのに。
理想を壊された恨みはちょっと大きい。
抓られた頬をさすりながら、遊星は拗ねたようにそっぽを向いた。
おや、とは不思議に思う。
何だ可愛い反応も見せるのね…。
通じ合うことで新しい一面を見せてくれるのはとても嬉しい。
明後日の方向を向いてしまった遊星には軽く抱きついた。
普段からは考えられないの行動に遊星は驚いて、弾かれたようにを見る。
そこで視線がぶつかった。
「あー…、愛してるわ、遊星。ずっと傍にいさせてね」
眩しい笑顔。
遊星はの笑顔が好きだった。
「…ああ」
目を細めて遊星は頷いて見せる。



…嗚呼、思い出した。

彼女は美しい人だった。