お気に召すまま 1


「あ、あの…困ります、アトラス様…」
「いいからこうしていろ」
「そんなぁ…」
かあぁ…と頬が熱くなるのがわかった。
ジャックの顔がいつもよりもずっと近い。
は今、何故かジャックの膝の上だ。
比較的小柄な方の彼女がジャックの膝の上に乗せられると更に小さく見える。
彼の護衛として控えているはずのが何故ジャックの膝に乗せられているのか。
それはが少し前からジャックによって求愛されているからである。
「別にこれ以上何もせん」
「そ、そういう問題ではありません…」
立場的にジャックの方が上であるので、なかなかNOを突きつけられないままに今に至っていた。
「口を開けろ」
机の上に並べられたお菓子を差し出されは狼狽した。
ジャックの手から食べさせてもらうなんて、畏れ多いというか何と言うか。
「ですがこれはアトラス様の為の…」
そう、目の前のお菓子たちはどれもジャックが食べたいと言って買ってこさせたと聞いている。
嗜好品はコーヒーが主だと思っていたのでには意外だったが。
「お前の為に用意した。遠慮せず食べるといい」
「!」
そうか、道理で。
目の前に並べられたお菓子の趣味がのものに似ていると思っていたのだ。
どちらかというと女性が好みそうなものが並んでいるなと。
「この前この店で食べたケーキが美味かったと言っていただろう。だから用意したのだ」
ジャックの言葉には目を見開いた。
確かにこの前御影にそんなことを言ったが、ジャックに言ったわけではない。
何でもない顔をして聞いていたのか。
「さあ、口を開けろ」
お菓子を口元に突きつけられ、ここまで言われてしまってはに是非はない。
おずおずとジャックの手からお菓子を食べる。
ふわっと香ばしいバターの香りと甘い味が広がるが、正直味わっている余裕などなかった。
「どうだ?」
「あ、は、はい…美味しいです…」
本当は味など分かっていないけれど、はおずおずと微笑んだ。
それを見てジャックは満足そうに溜め息を付いて傍らのコーヒーに口をつけたのである。




「…あああ…どんどん泥沼…」
手洗い場に行くと言い、ジャックの膝から降りたは、化粧台の前で息を吐いた。
そしてポケットから携帯を取り出す。
3件のメール。
1件はダイレクトメール、1件は仕事関係、そして最後の1件は…。
「…嗚呼…」
実はには結婚を前提として付き合いをしている男がいる。
上司から是非にと薦められた相手で、向こうがいたくを気に入ったと言う事でそのままお付き合いをすることにしたのだ。
どうせこのままセキュリティにずっと勤めるつもりもなかった。
流石に上司の薦めた相手だけあって少し歳は離れていたが、経済力は申し分なかった。
楽な生活が出来るなら…と気軽に受けてしまったが、今とても困っている。
ジャックに、彼のことを言い出せない。
メールには今晩は空いているかという内容だった。
可能なら家で手料理を振舞ってくれないか、とも。
は彼のこういう素朴さを求めるところが結構好きだった。
ジャックが悪いのではないが、金に物を言わせるやり方は余り好きではない。
今日の仕事は夜に御影に引き継いで交代だから可能である。
色良い返事を折り返し、は手洗い場を出た。
それなら帰りにはスーパーに寄って帰ろう。
何を作ろうカナ…。
「月並みだけど…肉じゃがとか、どうかしら」
「何の話だ」
「きゃぁ!あ、アトラス様っ…!?」
気配を全く感じなかった。
これがキングという存在…なわけないか。
「びっくりさせないでください…」
「何の話をしているのかと聞いている」
「…夕飯の話です。アトラス様にはそんな心配なんてございませんよね」
「…」
の言葉にジャックの雰囲気が変わった。
何だろう少し複雑そうな表情である。
「アトラス様…?」
「…お前が作るのか?」
「え、あ、はい。そうです」
意外なところに食いついてきてはたじろいだ。
しかしジャックは急に口角を上げ、意地悪く笑うと。
「食べられるのか?」
「!」
悪意を込めて放たれた質問には少しむっとする。
「…いつも美味しいお食事を召し上がっているアトラス様には食べられた物ではないかもしれませんね」
思わずトゲトゲと言い返してしまった。
この反撃はジャックも予想外だったようだ。
一瞬きょとんをした後、くっくっと喉で笑う。
「悪かった。怒らせるつもりではなかったが…怒ると言う事はある程度自信がある分野のようだな」
「…そ、そういうわけではありませんけど…」
素直にジャックが謝意を口にしたことに今度はが驚く番だった。
、その腕を俺の前で振るえ」
「えええ!?いえ、ですから食べられた物ではないと…」
「それは言葉のアヤだろう?食材はこちらで用意する。何でもいいぞ。俺の為に何か作ってはくれないか?」
「…」
傲慢な態度のくせに最後の最後でちょっとしおらしく頼むさまが狡い。
断れなくなるのを分かっていてそうするのだろう。
「…分かりました。では明日の夜にでも。材料は今夜狭霧に連絡しておきます」
「今夜は非番だろう?今夜ではダメなのか」
「あ、あの…今晩は予定が…」
一瞬先程のメールの内容を知られたのかとどきっとした。
時折我儘を言い出すジャックを知っているから、もしかしたら予定を変更しなければならないかもしれない。
しかしジャックはそんなの予想に反して素直に頷いて見せた。
「そうか。では明日だな。楽しみにしている」
ほっとすると共に、楽しみという言葉にプレッシャーを覚えた。
しかしジャックはそんなの気持ちには気付かない。
それどころか恭しくの手を取るとぐっと距離を詰めてくる。
「ところで。そろそろ俺の求愛を受け入れて仕事を辞める気はないか?」
「…アトラス様…その件はもう…」
「好いた男はいないと言ったな?それならば一度俺を試さないか?」
するりと腰を抱かれてびくっとは体を強張らせる。
「相性が良ければ…お前も俺を気に入るかもしれんぞ?」
「あ、アトラス様!未婚な女性にそんなことを言うなんて…!冗談でも怒りますよ!!」
しかし耳元で吹き込まれるように囁かれる甘い声にはどきどきしていた。
何だかんだでジャックは男前である。
傲慢で自信家だが無体はしないし本当はとても優しいことを知っている。
そんな男性に言い寄られて悪い気はしないだろう。
もう子供ではないのだから、彼の言うとおりに遊んでみたい気だってするけれど。
それは彼に対してあまりにも不誠実だから実行はしない。
そうでなくとも婚約者がいることが後ろめたいのに。
「俺は本気だ。、俺はお前が好きだ。俺の物にしたいと思っている」
「…っ、本気なら…一層タチが悪いです…」
はっきりと好きだなんて言われ慣れていない。
婚約者の男すらそんなこと滅多に言いはしないのに。
どきどきしすぎてくらりと視界が揺らぐような気さえする。
「アトラス様…離してください…」
「…」
「アトラス様っ…」
「…仕方が無い。気長にいくとするか」
残念そうに腕を解くジャック。
は脱力したようにへなりと座り込んだ。
抱き締められた腕の感触が生々しく腰に残っている。
そういえば誰かに抱き締めるなんて久しぶりで。
仕事が忙しくて疲れていると言って、婚約者は滅多にを抱かないし。
今晩夕飯の後誘ってみようかな。
だけど最中にジャックのことを考えてしまいそうだ。
さっきの低くて甘い囁きがじんわりとした余韻を持って耳に残っているから。






御影に仕事を引き継いでマンションまで帰ってきたは、婚約者からメールが入っているのに気付いた。
紹介したい同僚がいるという。
知り合いや同僚に紹介してもらえるというのはなかなか嬉しいことだ。
見せても恥ずかしくない、と言ってもらったような気がする。
「…同僚さんが来るなら普段着よりもきちんとした方がいいかしら…」
スーパーに寄る前に宿泊用の荷物を取りに戻って来ていた
タイミングの良いメールに自分の格好を省みた。
どうせ着替えるならいっそシャワーを浴びて化粧もしなおそうか。
彼が夜の誘いに乗ってくるかどうかは分からないけれど、そうなるのなら下着も替えたくなってきた。
恋愛から発展した関係ではないが、婚約者との関係はそこそこ気に入っているのだ。
結婚したら仕事を辞めてくれとも言われているが、今すぐに辞めろと言われている訳でもない。
こうやって逢瀬を重ねてつましく暮らすことに充足は覚えている。
は右手に視線を落とした。
右手の中指のリングは婚約指輪の代わりにと先日彼がに買い与えた物だ。
そろそろ日取りを決めようかと言われて頷いたのも記憶に新しい。
そう、今ここにジャックが入ってくる余地は無い。
無いはずなのに。
服を脱ぎランドリーボックスに放り込みながらは鏡に映る自分を見た。
別に特別美人でもなければ肉惑的でもない。
何処にでもいる平凡な公務員である。
スターダムの頂点にいるような彼が何故自分に執心しているのかさっぱり分からない。
バスルームに入りシャワーの蛇口を捻った。
冷たい雨が降ってくる。
「…」
途端に冷えていく体に震えを覚えながら、はぼんやりとジャックの言葉を反芻していた。

『一度俺を試さないか』

男性から誘いを受けたのなんか初めてだ。
曖昧な態度を取り続けるのが悪いのか。
言いそびれたままにするのも大概不誠実だろう。
今夜呼び出したということは、もしかしたらもう少し具体的な話をするつもりなのかもしれない。
ある程度話が進んだら打ち明けよう。
結婚すると分かればジャックも自分などには構わなくなるだろう。
気まずくなるのなら、セキュリティを辞職すればいい。
どうせ結婚する時には仕事を辞してくれと言われている。
早いか遅いかそれだけだ。
そうすればもうジャックとの関わりは途切れる。
途切れてしまう。
一方的にキングである彼をモニター越しに見ることはあっても、直接顔を合わせる事は二度となくなる。
…それは少し寂しいような気もするが。