お気に召すまま 2


夜を期待しているわけでは無いけれど、少しだけ華美な下着を選んだ。
婚約者は淡白で然程そういうことを気にしない。
何となくジャックが白を好んで身に付けているのを思い出し、白い物を選んでしまい苦笑する。
「アトラス様に会いに行くわけじゃないのに」
まあいいか。
改めて化粧を施し、普段着よりも少しだけ余所行きの服に着替えてから家を出た。
宿泊用の荷物を車に放り込み、出掛ける。
スーパーに寄って食材も買わなければ。
やっぱり肉じゃがにしようかな。
同僚の方が来るならお酒を飲むかも…何品か作れるようにしておくべきかしら。
「そうだ、御影に明日の食材のメールもしないと…」
今夜の食事と同じでいいか。
献立が決まったらメールをしよう。
食材が余るようならそれはもう持ち込めば良いだろう。
どうせ明日は夜勤だし。
様々な事を考えながら車を走らせるも、ふとした瞬間に思い出すのはジャックの事だ。
求愛をされたと言っても、あそこまで直接的に誘われたのは初めてである。
そんなにも自分の中で衝撃的だったのだなと苦笑すら込み上げてくる程だ。
急接近と腰を抱いた力強い腕。
「…っ」
思い出すだけで頬が熱くなる。
彼は顔が抜群に良いということをもう少し自覚した方が良い。
一度試してみろだなんて。
遊び好きな女なら簡単に乗っかってしまうに決まっている。
自分すら、こんなに動揺させられているのに。






「遅くなっちゃった…待たせたかな…」
合鍵で婚約者のマンションのドアを開ける。
廊下の奥に明かりが見えた。
ああ、もう来ているのだ。
「…?」
しかしは首を傾げた。
玄関に揃えてあるのは婚約者の革靴と。
「女物の、靴…」
途端に嫌な予感がの胸をよぎる。
自分が来る事を忘れて女を連れ込んでいるのか。
慌ててはリビングに駆け込んだ。
そこには婚約者と若い女がソファで並んで酒を飲んでいた。
「ああ、君か。待っていたよ」
普段どおりに声を掛けてくる婚約者には混乱する。
如何見ても恋人同士のような二人の姿。
寧ろ場違いなのは自分のようで。
「同僚を紹介すると言ったろう。彼女は僕の秘書でね。そろそろ紹介しておこうかと思ったんだ」
「…え…っ」
てっきり男の同僚か部下に当たる人間が来ると思っていたので、は狼狽した。
「お初にお目にかかります、奥様。わたくし、秘書の―と申します。以後お見知りおきくださいませ」
『奥様』と呼ぶ女の目には、何故だろう僅かな敵対心のようなものが見え隠れしている。
丁寧な話し言葉の癖に何処と無く馬鹿にされているような…。
「おいおい、奥様は気が早いだろう」
「いいえ、もう奥様も同然ですわ。それに一緒に暮らすなら立場をはっきりさせておかねばなりませんし」
流し目の女の言葉には目を見開いた。
今とんでもない爆弾発言が織り交ぜられていかなかったか。
「ちょ、ちょっと…一緒に暮らす、って…」
「君と結婚したら一軒家を買うつもりなんだが、部屋も広くなるからね。彼女にも一緒に住んでもらって家でも僕の仕事を手伝ってもらう予定だ」
「なっ…」
「君は料理も上手いし、家に来たときは家事もきちんとやってくれる。家のことは君に任せたいが、仕事の事となるとそうはいかないだろう」
「奥様、ご安心ください。きちんとお仕事面はわたくしがサポートいたしますので」
言いながら射抜くような目で見詰めてくる女の視線に、は婚約者が何故自分に対して淡白なのかを知った。
その必要が、なかったのだ。
美人で若い秘書が彼の世話を公私共にしている。
だから、を抱く必要など全く無かったわけだ。
女の敵対心を含んだ視線を理由は、本妻にななれなかった女の小さな抵抗か。
「さあ、いつもみたいに美味い手料理を振舞ってくれないか。彼女も楽しみにして来たんだ」
「そうなんです。いつも自慢げにお話を聞かされていますわ。とても楽しみにしていますの」
「…」
馬鹿にしたような女の言葉には悪意があるが、理由も頷ける。
これから家政婦として飼われようとしているを嘲っている訳だ。
は手が震えるのを感じた。

上司から是非にと勧められたこの付き合い。

既に婚約までして、周囲に知れ渡っているこの関係。

結婚直後から夫の愛人が家に居る生活。

名目上は妻として家政婦のように家に閉じ込められる一生…。

馬鹿馬鹿しい。
女を舐めるにも程があるというものだ。
セキュリティに勤めている中では大人しい方のだが、今回ばかりは穏やかではいられない。
はスーパーの袋をどさっと床に落とし、右手からリングを引き抜いた。
「あんた達に食べさせるご飯なんか無いわよ!!!食材恵んであげるから自分で作れば!?婚約は破棄させてもらいます!!!女舐めるのも大概にしろよ!」
大声で怒鳴りつけ、リングを床に叩きつけた後、玄関へと踵を返す。
そこで合鍵の事を思い出し、それもリビングの方へ向かって思い切り投げつけた。
馬鹿にして!馬鹿にして!
それともある程度の地位を築いた人間は普通の感覚がなくなってしまうものなのだろうか。
マンションのエレベーターの中では溢れてくる涙を拭った。
凄く惨めな気分である。
婚約者との逢瀬に安らぎを見出していたのに。
実際は金の掛からない女を都合よく呼び出しては家事をやらせていただけ。
恐らく自分の最低ラインをクリアするかどうかをはかっていたのだろう。
そしてセックスは及第点ではなかったのだ。
だから愛人を傍に置く事にした。
「…っ」
こんな男に騙されていたなんて。
大人しい表情しか見せなかったから男は簡単にを篭絡できると踏んだに違いない。
だからこのタイミングで愛人を紹介したのだ。
狼狽しながらも頷くと思ったのだろう。
いや、もしかしたらあの愛人に焚き付けられたのかもしれない。
本妻になれないことに不満を感じているようだったし(恐らく家事が及第点ではないのかもしれない)男を言いくるめて別れるように仕向けたのかも。
どちらにせよ男を見る目が無かった事だけは確かである。
は泣きながら車に乗り込んだ。
視界が滲むけれど男が追いかけてきたら嫌だから、発進させた。
…追いかけてくるなんて、万に一つも無かったろうけれど。






気付けばは職場にいた。
そう、ジャックの住むビルの駐車場である。
「…来ちゃった。あたし、ホント最低…」
何しに来たというのだろう。
ジャックに泣きつく為か。
ジャックに慰めてもらう為か。
何をするにせよ彼の気持ちを知った上での最低の行為だろう。
今まで受け入れもせず、婚約者がいる事すら隠して、これから更に何をしようというのだ。
だけど涙は止まらなくて。
自己嫌悪に塗れながらはしゃくりあげて泣いた。
すると、誰もいないはずの入り口から人影が見える。
「…、っ…嘘」
背の高さで誰が来たのか一目で分かった。
特徴的なコートのシルエットもの予想に説得力を持たせる。
慌てては目元を拭った。
そうしている間にも人影はどんどん近づいて来て…。
のいる運転席側で、ぴたりと止まった。
『開けろ、
車の外から声を掛けられ無視も出来ず、は渋々車のドアを開ける。
「…何で、アトラス様がこんな所に…」
「そろそろ来る頃だと思って駐車場の監視カメラを見張っていたからだ」
「そろそろ…って」
何故そう思ったのだろう。
は不審に首を傾げた。
「女がいたのだろう?」
「!」
その言葉に弾かれたようにはジャックを見上げた。
「お前に婚約者がいたことなどとっくに知っている。だがお前は俺に『好いた男はいない』と言ったろう。俺はそれを信じただけだ」
「っ…」
確かに言ったけれど。
そして婚約者との関係に確かに恋愛という感情は薄かったけれど。
それでもは本気であの男と結婚しようとしていたというのに。
「愛人がいる事も調べはついていたんだがな…」
「嘘…じゃあ…本当に全部知って…?な、何で教えてくれなかったんですか!?」
「求愛している人間が言ったところで説得力がなかろう。可哀想だとは思ったが直接会って貰うしか無いと思ってな。少し手を回した」
「手を…って、じゃあ、今夜のことは…」
昼間のメールも。
あの愛人が急に現れたのも。
ここにジャックが立っているのも。
「悪いとは思うが、殆ど俺の計画通りだ」
「…っ!!!」
ぶわっとの目から涙が溢れた。
もう、訳が分からない。
悲しいのだか恥ずかしいのだか…嬉しいのだか。
ネタばらしをすればこうなるであろうことも予測済みのジャックは、とりあえずを車から抱き上げた。
お姫様抱っこの状態で、本当ならばもっとときめくシチュエーションの筈なのに全くそんな気分にならない。
「っ、ふ…あ、アトラス、様…?っく、何処へ…」
「傷ついて悲しむお前の弱みに付け込んで、寝室へ連れ込もうと思ってな」
「!」
びく、との体が強張った。
しかし抱き上げられた状態では抵抗らしい抵抗など出来はしない。
そのままエレベーターで運ばれて、最上階のジャックの居城へと連れて行かれる。
「だめ、だめです…アトラス様。あたし、縋ってしまう…。貴方の気持ちを汲むこともなく、アトラス様の優しさに甘えてしまいます…」
「惚れた弱みだ。それに俺もお前の傷心にかこつけてお前を抱こうとしている。お互い様だろう?」
「そんな、でも…」
は俯く。
しかし実際にジャックはを抱えたまま、寝室へと足を運んでいた。
広いベッドを目の当たりにし、は頬が熱くなると同時にジャックの囁きをまた思い出す。
まさか本当に彼とこんな風になるなんて。
優しくベッドに下ろされた。
「アトラス様、やっぱり…あたし…っ」
「…もう黙れ」
「っん…!」
抵抗を続けるの唇をジャックは優しく塞ぐ。
そして重ねあったまま、ジャックはゆっくりとをベッドに押し付けた。