かつんかつんとヒールが音を響かせる。
薄暗いリノリウムの床を歩く。
やや緊張した風の彼女は愁いた表情を浮かべたまま、自らの手元に視線を落とす。
手の中には封筒。
その表には【辞表】とあった。
「…」
真新しい白い封筒を皺が出来るくらい強く掴んでいたらしい。
慌てて持ち直して、は深い溜め息を吐いた。
まあ、こうなった以上これが一番良いのだろう。
これを手渡すために呼び出した上司の姿を確認した。
は浅くなりそうな呼吸を整えて、彼に向って歩き出す――。
何故彼女が辞表を提出しようとしているのか。
話は、が出張から帰ってきた翌日に遡る。
朝。
ふ、とが目を覚ます。
昨夜は夢のような一夜だった。
の中に生まれた自覚は確実にジャックとの愛を深めた。
独りきりの夜がジャックへの気持ちを育て、今結実したのだろうとさえ思う。
「…起きたか」
「ジャック…起きてたの。珍しいね、アナタが先に起きるなんて」
いつだってはジャックよりも先に起きていた。
仕事があろうとなかろうと、眠るジャックを起こさないように気をつけながら腕枕からすり抜ける。
見守られて目覚めるなんて初めてのことだ。
「…」
もそ、と布団の中のジャックの腕がを抱き寄せる。
「…あん、ダメ…今日から仕事なのに……」
やんわりと抱き締めてきたジャックの胸を優しく押し返す。
仕草と力加減から本気の拒否ではないことは明白で、ジャックはそのままの首筋にキスを落とした。
「ん…ぁ、あ…」
滑らかな体を掻き抱き、首筋から鎖骨のラインを唇で辿る。
「ジャック…、あ、ぁ…っ」
仄甘い感覚に性感を引き出されそうになりながら、それでもやはり朝だからとやんわりジャックを押し返そうとした。
しかしの手は途中でぴたりと止まる。
自分を見つめるジャックの視線が真剣そのものなのである。
朝からふざけようとしている様子は微塵も感じられなかった。
「、俺の話を聞いてくれ」
ジャックの周りの空気が冷たいような気がする。
彼は、秘密を打ち明けてくれる気になったのだろう。
この真摯な瞳に見つめられて、気付かないほど鈍くはない。
だけど…雰囲気を見るに良い報告ではなさそうだ。
そもそも秘密というものは得てして誰にも話せないから秘密なのである。
そして誰にも話せないことが『良いこと』である可能性の方が少ない。
の髪を撫でながら、ジャックはきつく彼女を抱き寄せた。
「…俺はシティで生まれ、今キングとしてここに存在している」
「……そうね」
「そういうことになっている」
ジャックの言葉には漠然とした不安を覚えた。
「…そういうことに、なっている…とは…?」
先を聞くのが怖い。
だってそういうことになっているって言うことは…真実は逆ということで…。
の心に暗雲が立ち込める。
ジャックは一体何を否定しようとしているんだろう。
とは言え頭の隅では何となく気付いてしまっている自分もいる。
キングであるということは誰が見ても覆らないことだ。
彼は今や誰もが認めるスターダムの頂点である。
…と、言うことは。
「…俺はシティの生まれではない」
静かなジャックの言葉にはぎくりと体を強張らせた。
「…まさか…貴方…」
「俺はシティではなく、サテライトの生まれだ」
「!」
彼が?
愛した彼が?
は体がすーっと冷えていくような気分に陥った。
サテライト。
その土地の名前がどのようにシティで使われているのか。
は元より、ジャックは痛いほど知っている。
顔色を失っていくにジャックは僅かに顔を曇らせた。
同時に抱き寄せた腕の力も弱くなる。
「…幻滅したか」
「え…、?…いえ、あ、あの…ちょっと、ビックリして…」
視線を彷徨わせながらもは動揺を隠せずにいた。
それはジャックの告白にもだったが、その告白に対する自分の態度にもだった。
今までシティとサテライトとの関係に何かを感じたことも無かった。
良くも悪くも自身は無関心だと。
しかし、目の前の愛する男からの告白を受けて…。
は気付いてしまった。
一瞬、何か酷くがっかりしたことを。
そしてそれが…ジャックにも伝わったことを。
「ジャック…あたし、ちょっと混乱していて…。ごめんなさい、暫くこうやって会うのは止しましょう…」
言って、逃げるようにベッドから抜け出す。
これ以上ジャックの顔を見ていられない。
『幻滅したか』と聞いたジャックの言葉が脳裏に焼き付いていた。
瞬間的に見抜かれた言葉を取り繕うこと勇気すらなくて。
逃げるように…いや、本当に逃げたのである。
部屋を出ていくをジャックは追いかけない。
ただ彼女の言葉を反芻し、恐らくあれが最後の言葉なのだと理解した。
が出勤してこない。
いや、彼女のあの言葉からすれば当然かもしれない。
告白を聞いた瞬間のあの顔色は明らかにショックを受けたか幻滅をしたようだった。
少なからず傷ついた気分にもなったが、あの反応はシティに住んでいる人間なら当然ともいえた。
予想もしていた。
悪い方に結果が出たが、それでもこのキナ臭いセキュリティという組織から彼女が抜けたのならば些末な問題である。
永遠に愛しい女を失ってでも彼女が危険にさらされるようなこの仕事から遠ざけたかったのは事実だった。
もしかしたら彼女だけは特別かもしれないと思ったが、世の中そんなには甘くないということだろう。
傍で守ってやれないことだけが悔やまれるが組織を抜けたのなら命の危険はないはずだ。
結局、罪悪感を抱えたままで彼女の傍にいることを選択できなった弱い自分が一番悪いのだから。
「アトラス様、遅くなり申し訳ありません。本日出勤のはずのが無断欠勤をしておりまして…調整に時間がかかってしまいました」
非常に恐縮した様子で御影が入ってきた。
彼女たちの存在を然程歯牙にかけていないジャックではあるが、御影の言い方が気になる。
「無断欠勤?あいつは仕事を辞めたのではないのか?」
「…辞めた…?いいえ、そのような話は…ああ、でも異動の話が出ているとかいうのは小耳にはさみましたけど…」
「異動…?」
どういうことだ。
彼女が出勤してこないのは十中八九仕事を辞したからだと思っていたが。
あの反応を見るにそれ以外の選択肢は考え付かない。
「…おい、上司を呼べ。聞きたいことがある」
「!…は、はい…っ」
御影の曇った表情に、が無断欠勤したことへの責任追及が始まるのだろうと考えているのが読めた。
が、見当違いも甚だしい。
ジャックが聞きたいのは、の取った行動ただ一点のみである。
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・
上司と話した後、どうしても仕事をする気になれなくては公園にいた。
今頃ジャックが出勤してこないことに大騒ぎしているかもしれない。
過保護な彼のことだ…と考えては俯いた。
「これからどうしようかなぁ…」
セキュリティに未練は無かった。
結婚して辞めてもいいとすら思える職業だった。
そんなある種適当な心持ちで仕事をこなす日々だったはずなのに。
「まさかこんなことになるなんてなぁ…」
青天の霹靂とはまさにこのことだろう。
適当にこなしていたはずの職業だった。
だけどジャックの不正を知ったことを看過出来ない自分がいた。
サテライトから勝手にシティに移住するのは犯罪である。
ジャックの話から察するに、あのセキュリティという組織自体が計画的にジャックを囲っているのであろう。
サテライトからシティに潜り込んでくる人間は少なくない。
収容所には日々数人から数十人の人間が送り込まれているとも聞く。
ただ、サテライトから移住してきて誰に見咎められもせずにジャックのように成功することは不可能だ。
セキュリティに協力者、ないしはジャックを傀儡にしようとしている人間がいるに違いない。
そこで浮かんでくる人間はただ一人である。
しかしには彼の最終的な目的がどうしても分からなかった。
キィ、と座り込んだブランコが小さく音を立てる。
「ねー…あたしこれからどうすべきと思います?…ジャック…」
「…気付いていたのか」
の真後ろに立つ白いコートを靡かせたジャックは驚いたように目を見開く。
探して探した彼女の姿をようやく見つけたものの、何と声を掛けるべきか悩んでいたのである。
「セキュリティなんかどうでもいいと思ってたんですよ」
「…そうか」
「実は、正直そろそろ仕事辞めてジャックの傍にいようかなーって思ったりもしてたんですよ」
「!…ならば何故…っ」
ジャックはブランコに座っているの前に回った。
その表情は今まで見たこともないような焦燥感を刻んでいる。
がし、と肩をきつく掴まれた。
「何故、お前は辞表を出さずに俺の前から消えようとした…っ」
それはジャックにとっては最悪の選択だった。
自分が守れないのであればせめてセキュリティの手が届かないところへ。
それが最後の願いだったのに。
「…」
は自分の手元に視線を移す。
そこには少し皺の入った封筒が握られていた。
上司に提出しようと用意したもの。
そして上司に声までかけたのに、結局渡せずに部署の異動だけを願い出たのである。
ジャックの警護から外して欲しいと。
「お前は…サテライト出身の俺から逃げようとしたのか…?」
打ち明け話を聞いた時の、の色を失った目が忘れられない。
シティにサテライトの人間への差別意識が強く植わっているのは知っている。
上層部になればなるほどその呪いが強くなることも。
はジャックの言葉に返答することなく、違う質問を返した。
「希望の異動先…聞きましたか?」
「…ああ。本部だろう?」
「そうです。セキュリティの本部…。ゴドウィン長官の管轄です」
ジャックをシティへ招いた張本人が管轄する部署への異動を願い出ていた。
真意が分からずジャックはただただを見つめるのみである。
「あたし、一番惨めな思いをしたとき…ジャックに救われました」
「!」
昔の婚約者の話か。
「あの日、あたしは自分が世界で一番可哀想だって思った…。でも、その直後…あたし世界で一番幸せな女になったんです」
「…」
「ジャック、ごめんなさい。あたし貴方を一番愛してると思った。でもサテライト出身だって聞いたとき、一瞬だけがっかりしたんです。生まれなんか何処だって変わらないのにね」
「、お前は…だから俺の前から姿を消そうと…」
「あたしの反応に貴方は傷ついた顔をした…。あたし、何てことをしたんだろうって思ったけど…取り繕うのはもっと失礼だと思って」
ジャックがの反応を忘れられなかったように、もジャックの表情が忘れられなかったのである。
レクス・ゴドウィンによって敷かれたルールが二人に影を落としたのは紛れもない事実だった。
「この街のルールはおかしいって、その時気付きました。今まで見向きもしなかったけど…。だからあたし、本部への異動を願ったんです。セキュリティの組織が何かおかしい…そしてジャック、貴方は被害者であって犯罪者ではない。貴方の為にあたしはセキュリティという組織を調べたい。…これがあたしの結論です」
「何故…相談しなかった」
「出来るわけないでしょう。貴方を傷つけておいて…。捨てられると思ってましたし。まさか探してくれるなんて」
完全に終わった恋だと思った。
それも自らの手で断ち切っってしまったのだと思っていた。
しかし結果的にジャックは自分を許し、街中を探し回ってくれたのだ。
「ジャック、貴方を愛してる。許してくれるなら、あたしを貴方の役に立たせてほしいの」
「…許すも許さないもない!お前の反応は自然なものだ。俺でいいのか。サテライト出身のこの俺で…!」
「生まれなんか関係ないの…!ジャック、貴方がいればあたしは…っ」
がば、とがジャックに縋りついた。
ジャックもそれを受け止める。
すれ違っていた気持ちが重なるのを感じながら二人はきつく抱擁し合った。
・
・
・
「…、もう一度だけ聞くがその辞表を提出して俺と一緒になる気はないのか」
「……今は…そのつもりはありません」
はっきりと伝えるは決意を込めた視線をジャックに返している。
彼女の決意は固そうだ。
ならば、ジャックも覚悟を決めなくてはならないだろう。
「お前がその気なら明日にでも本部へと異動させてやろう。…まだ暫くは俺の為に働いてもらうぞ」
本来のジャックの計画はを危ない仕事から遠ざけることだった。
宥めすかしてでもセキュリティを辞めさせて、一生甘やかして生活するつもりだったのに。
今ここでそれが大きく道を逸れようとしている。
「任せてください。セキュリティの組織ぐるみの企み…探ってみます」
秘密を共有する選択をした二人。
目の届かない場所でそれでもジャックの役に立ちたいという健気な言葉を一蹴できないのがジャックの甘さなのだろう。
「これ以後の勝利は全てお前に捧げる。もう勝手に消えたりするな」
「…はい」
「時間を見つけて会いに行く。拒否は許さんからな」
「…ええ、分かっています」
の頬を伝う一筋の雫をジャックは優しく拭ってやると、ゆっくりと顔を近づけた。
それに応えるようにも目を伏せる。
王者である彼が白昼堂々と小さな公園で誓いのキスを交わすことに一体誰が気付いただろう。
誰に祝福を受けることもないただ二人だけの――。
その後間もなくジャックにフォーチュンカップの計画がもたらされる。
終
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お気に召すまま、残すところ後一話。
なんとなくシリアスな感じになってしまいましたが、宜しければあと一話だけおつきあいください。