無題


、良く聞け。俺は飛べる」
「…ハァ…」
「お前さえいれば、何処までも」
「……ロマンチックな風に言ってるけど、アナタ、今ここが何処だか分かってる?」
寒風吹きすさぶ屋根の上。
何かを思いついたら一直線なところを愛してもいるけれど、出来れば春にやって頂きたかった。
「寒くて死にそう。もう降りない?」
「降りない」
「…はぁ……」
「寒いならもっと俺の傍に来い」
さあ、とコートの前を開けてくれる様に不審者の匂いを感じつつ、あまりにも寒いので言葉に従うことにした。
まさかコートの中にをおびき寄せる為にこんなところにいるのではあるまいか。
それならば申し訳ないけど馬鹿馬鹿しすぎる。
ユートが階下を通りかからないかなぁ…と淡い希望を持ってきょろきょろと辺りを見渡してみたりして。
彼に助けを請えば、きっと呆れた顔で助けてくれるに違いないのに。
だけど無情にも風に吹かれた枯れ葉が流されていくばかりだった。
「さあ、飛ぶぞ」
「ハァ?」
自身のコートごとの体をぎゅっと抱き締めたかと思うと、黒咲の足は屋根を駆け下りる。
勿論もつられて駆け下りる形だ。
「わ、わ、わ、ちょ…っ」
明らかに短すぎる滑走路の足場はすぐに無くなってしまう。
あと一歩でも踏み出せば重力に逆らう術もなく地面に叩きつけられるに違いない。
一体黒咲は何を考えているのだろう…とすら考えられないままに、はぎゅっと目を瞑った。
その刹那、ふわりと重力から解放される浮遊感がの体を浮き上がらせた。
一瞬の無重力状態。
嗚呼、そして加速度的に重力によって地表に吸い寄せられるのだろうとは悲愴なる想像に気が遠くなる気がした。
しかしこの瞬間、黒咲はを横抱きにして屋根の端を蹴ったのである。
「しっかり掴まれよ」
「…え、っ」
黒咲の声を掻き消すほどの轟音で風が駆け抜けた。
巻き上げられる髪を押さえながらは薄らと目を開く。
遠くに見えるのは太陽、もっと近くを見るのならを抱える黒咲の細い顎のラインが見える。
「…しゅ、隼…?何、どう、なったの…」
滞空時間が長すぎることに恐怖を覚えて視線を下に落とせば、広がるハートランドの町並みが。
一瞬悲鳴をあげそうになるのを飲み込んでもう一度黒咲を見上げた時、彼の真後ろに大きな翼が見えた。
「…な、な、何それ……」
「飛べるようになったと言っただろう」
「ええっ?や、だからって、それ…ソリッドヴィジョンじゃ…」
言っておいてそれが立体映像でないことはが良く知っている。
あれは限定的なものであって、そんなに便利には出来ていない。
今この現状を鑑みるに、風を切るその翼は間違いなく黒咲のものであるとしか思えない。
「空は…自由だな」
「え…っ、う、うん…そうね…」
いつの間にか勝手に人間じゃなくなったアナタも十分自由だけどね、という言葉は飲み込みは黒咲が視線を向ける方を一緒に眺めた。
下を流れる風景とは違い、遠くまで広がる町並みが見える。
太陽に照らされて反射するビルの窓。
翳った住宅の屋根。
「…在りし日の世界…」
「え?」
黒咲の小さな呟きは風に掻き消えてしまってには聞き取れなかった。
聞き返すために見上げた黒咲は穏やかな微笑を湛えている。
何故か、その表情はを凄く苦しい気分にさせた。
「隼…?どうしたの?」
、実はこの空を飛ぶ能力なんだが」
「う、うん」
「5分しか保たない」
「……へっ?」
ちょっと待ってその告白今するものなのですか。
「そろそろ」
「…うん、降りるの?」
「5分だな」
「………は?」
慌ててが黒咲の真後ろに目をやると、翼が端からばらばらと抜け始めている。
それはもう恐ろしい勢いで剥がれていき、見る間に黒咲の翼が小さくなっていった。
最終的に細かい羽を撒き散らしながら二人の体は失速し。
「え、え、え、ちょ…っ!」
一瞬の浮遊感の後、とんでもなく強い重力に引き寄せられるのをは感じた。

「ばか隼ンンンンン―――――!!!!!!!」

大絶叫しながらは体に強い衝撃を感じてはっとする。
朝日が差し込む小さな部屋のフローリングの上でひっくり返っている自分に気付いた。
「…あれ…っ」
一緒に落ちてきたのであろう布団も傍に見えた。
もそりと体を起こすと同時にだだだだ、と廊下を走るような音か近付いて来る。
はっきりと覚醒しないままにその音の方を向いた瞬間、慌てたようにユートが入って来た。
「すごい声がしたが大丈夫か」
「ユート…」
ユートの姿を見て漸く、何となく頭が状況を飲み込み始めた。
つまりは。
「誰が馬鹿だ、誰が」
「…隼も……。夢だったんだあぁ…良かったー……」
ユートの後ろに立つ黒咲の姿を見止めて、は深い息を吐く。
本当に死ぬかと思った。
「そんなに怖い夢を見たのか?」
へたりこむに手を差し出したユート。
それに助けてもらいながらは立ち上がる。
見渡す部屋には変化は何もない。
それが如何に安心する事なのかを思い知らされた気分ではユートを振り返った。
「怖いって言うか、急に隼が『俺は飛べる』とか言い出して」
「…飛べる…」
「そう。で、屋根から飛び降りたのよね。まあそこでは何でも無かったんだけど、結局墜落っていうか」
はぁ、と深い溜め息を吐いたが黒咲を見る。
ユートも振り返って黒咲を見る。
「……なんだ、その目は」
「隼らしいわよね」
「そうだな」
「な…っ!」
俺はそんなことはしない!と至極真面目に声を荒げる黒咲。
いやだからそういうところがね…と思いつつは着替えのために二人を部屋から追い出した。
薄いカーテンの掛かった立て付けの悪い窓を渾身の力で開ける。
黒咲に先にこれだけを頼めば良かったと後悔した瞬間、窓は勢い良く開いた。
部屋に入り込んでくる風は心なしか埃っぽい。
黒咲に抱えられていた一瞬の空はもっと澄んでいたような気がする。
「……」
が見渡す窓の外に広がる世界は、もう夢の中の世界ではない。
「隼が空から見せてくれた世界は…在りし日の、記憶の中の世界だったのね」
あの時風で聞こえなかった黒咲の呟きと同じ事を無自覚に呟いて、は窓に背を向ける。
「……だから、隼はあんなに穏やかに微笑んでいたんだわ」
それすら遠い昔のことのようで。
夢の中で感じた胸の苦しさをはもう一度噛み締めた。



「逃げ回るだけなら、いずれ終わりが来るんだろうな」
朝食の席だと言うのにいきなり重苦しい話題から始まった。
「ちょっと、朝っぱらからそういうこと言う?」
「朝だろうが夜だろうが同じだ」
「一日を過ごす心持ちが全然変わるわよ…もう」
乏しい食材であればこそ美味しく食べたいのに。
黒咲にデリカシーを求めても仕方がないか…と、やや諦めの境地ではパンを齧った。
「……ジャムとかマーガリンとか言わないから、せめて焼いてあればなぁ。今朝は電気ダメだったんだ?」
「ああ。最近不安定だな」
「そうだね」
人間がカード化されるという異常事態のため、人口の減ったハートランドは著しく都市機能を失っていた。
街を街として運営していた人間が消えてしまえば働き手も相対的に減ったことになる。
停電など日常茶飯事で、寧ろ通電していたら誰が動かしているのだと不思議に思うくらいだった。
それでも不定期ながら電気が通るときを待って不便な生活を乗り切っている。
「…
「何よ」
「次に通電したら、計画を実行に移せそうだ」
黒咲の言葉にはパンを齧ろうとしていた顔を上げる。
まっすぐに黒咲に視線を投げるが、黒咲はらしくなく彼女の視線から逃げるように窓へ目を向けていた。
ここから見える窓の外は殆どが空である。
2階の窓だからもっと色んなものが見えてしかるべきだったが、生憎と視界を遮るビル群などは既に存在しなかった。
ついでに言えばめぼしい建物すら殆ど瓦礫になっているのであった。
「…その計画、成功する保証あるの」
「……」
「あたし…ルリちゃんに次いでアナタやユートまで失くしたら…どうやって生きていけばいいの」
「逃げ回るだけならいずれ終わりが来る」
最初に言ったことと同じ言葉を繰り返す黒咲の声はさっきよりも強い。
確かにもそれを理解しているし、敵の目論見がこの世界の全滅であるのなら、逃げ回るだけでは緩やかに絶えていく未来しかないのであろう。
「遅かれ早かれ死を待つのなら、手をこまねいて見ているわけにはいかない」
「…だからってスタンダードに転移するなんて…そんなの、成功する保証なんてないじゃない…」
他次元の世界でなら戦う術が見つかると言うのか。
それこそ既に終わった世界である可能性は無いのか。
仮に転移が成功したとしても戻って来れる文明が存在しなければハートランドの未来は変えられないと言うのに。
「試さなければ今と同じだ。何も変わらない」
「…あたしたち……平行線ね」
食べかけのパンを皿の上に置いては席を立った。
感情的な気分に流されるままに黒咲を責めてしまいそうだったので。
ここで言い合いをして何になる。
行かないで、傍にいてと泣きつくことが出来ない自分も嫌だった。
素直になって見せれば黒咲の態度も融和したかもしれないのに、どうしてもみっともない真似は出来なかった。
離れていく黒咲に最後に見せる姿は自分らしいものにしたかった。
部屋を出ていくを横目に見ながら黒咲は深く息を吐く。
溜め息ではない。
「……お前が生きる世界を守るためなら、俺はどんなことでも出来る」
押し殺していた言葉を吐き出すために深く呼吸をしただけだ。
そうでもしないと素直な言葉を吐き出すことは、今の黒咲には難しくて。
「…また喧嘩か」
「…ユート」
入れ違いに入って来たユートは苦笑を浮かべている。
を置いていくつもりとは知らなかった」
「…仕方がない。転移が成功するとは限らない。…彼女を危険に晒したくない」
「それを伝えれば喧嘩にはならないんじゃないのか」
「……」
事も無げに言う。
それが出来れば苦労は無いのだと黒咲は顔を顰めてユートから視線を逸らした。
二人揃って素直じゃないことはユートが身を以て知っている。
やれやれと思いながら、もう少しだけユートは言葉を重ねた。
「お前は間違ってはいないと思う。だけど…」
「?」
「彼女の世界を守るよりも、彼女自身をお前の手で守ってやった方がも喜ぶと思うけどな。俺は」





カーテンを閉め切った薄暗い部屋ではまたしてもベッドの中にいた。
既に崩壊した日常に決まったルールなどは存在しない。
別にいつまでこうしていようと個人の自由と言えば自由である。
規則正しい生活をある程度心がけているのは、人間らしい生活をしたいだけだ。
荒みきった生活の果てに待つものが幸せな未来であるはずがないとは知っているから。
「…」
ぎゅっと枕を抱き締める。
嫌だよう。
隼が何処かへ行くなんて許せないよう。
ずっと傍にいてくれるって、ずっと一緒だって付き合う時に言ったくせに。
嘘つき嘘つき!!!
「…言えるワケない」
姿を消した妹のためにも黒咲がどんな気持ちで異世界への転移を決意したかを知っている。
その為に色んな準備をユートとしていたことも知っている。
困らせたい訳じゃない。
「……ばか隼…」
嗚呼それでも溢れてくる涙は止められない。
いつしかは泣きながら眠っていた。
あの穏やかな夢の続きでもあれば慰められもしただろうに。
今度の眠りはただの真っ暗闇が広がるばかりだった。



「…、起きるんだ」
「う、ん……何、……」
薄らと目を開けたの視界は強烈な光によって遮られそうになった。
「っ、眩し…」
光から逃げるように顔を背けたはハッとする。
明かりが点いている。
と、言うことは不安定だった電気が今は通っているのだ。
「…通電、したのね…」
今朝の黒咲の言葉をは鮮明に思い出していた。
異世界へと彼が旅立つ瞬間が来てしまったと言うことだ。
もしかしたらもう二度と幸せな瞬間は戻って来ないかもしれないと思うと涙が滲んできた。
…」
「…、ごめん、ちゃんと、送り出すつもりはあったの…」
だけどいざとなると心が言うことを聞いてくれなくて。
目元を拭いながらはベッドを抜け出る。
「……、俺の我儘を聞いてくれるか」
「なぁに?これ以上まだあるの?」
仕方のない隼だ、と苦笑を浮かべて振り返った瞬間、は黒咲によってきつく抱擁されていた。
一瞬息も止まるかと思う程に抱き締められて、目を瞬かせる。
「ダメだ。やっぱり無理だ。お前を置いていくなんて俺には出来ない…!」
「えっえっ…ちょ、隼…」
「連れていく。お前が嫌がっても。、俺と来い!」
想像だにしない言葉が黒咲の口から矢継ぎ早に飛び出してきて、は一字一句を反芻しながら時間をかけて理解した。
抱き締められた部分から、体温を分かち合っているようで。
愛おしい気分が強くなっていく。
相対的に悲しい気持ちがゆっくりと払拭されていった。
「良いの…?あたし、絶対足手まといだよ…?」
「俺が守り抜けば問題ない。…ずっと、一緒だ」
「!…、うん…そうだね。ずっと一緒って、約束したもんね」
それはもっと精神的なことを説いているのだと思っていた。
きっと黒咲も最初はそのつもりであったには違いない。
「…隼、愛してる」
そっとが背伸びをして黒咲の頬に唇で触れた。
受け入れた黒咲はの顎を軽く掴む。
黒咲の見下ろす視線は鋭いけれど、黄昏の温かみも孕んでいていつも不思議な気持ちになる。
「俺もだ。…、愛している」
ゆっくりと唇を近付けてくる黒咲。
与えられる甘い口吻けはきっと永遠を誓うものになるだろう。
そんな予感がする。
この先に何が待っていようとも、今日の出来事は嘘になることは無い。
戦いは始まったばかりである。