薄暗い六畳間。
夕闇の差し込み始めた昏い部屋。
肌寒い冷気が支配するこの空間に突如としてアナタは現れた。
「ったく、テメェがここまで空気読めねぇとはな。何で別の次元に転生してんだバカ。フツー俺についてくるだろーが」
意味の分からない言葉を吐き捨てて詰め寄ってくる。
「…あ、アナタ…今何処から……?」
幽霊のように突然何もないところから現れた男の子。
驚きすぎて殆ど声も出ない私の腕を掴み、顔を覗き込んできた。
「な、何……」
人間、驚き過ぎると声が出ないとは本当だ。
混乱に詰まる喉が悲鳴を上げるより先に、彼の睨みつけるような双眸が私の目を射抜く。
「二度と忘れられねぇ悪夢…思い出させてやるよ」
ギラリと輝く凶悪なこの視線を私は知っているような気がした。
冷え切った指をぎゅっと握り締める。
戦の後はいつもこうだ。
人間を斬った手が温もりを無くして震えている。
誰かを殺めることは既に割り切ったつもりなのに、温もりを欲しがるなんて浅ましいことだ。
「…湯に浸かればマシにもなるか…」
立ち上がり部屋を出る。
いつでも湯殿を使えるのは贅沢だと感じるが、これくらいの特権が無ければ人殺しなど割に合わないのかもしれない。
彼女自身は特権の為に剣を握っているわけではなかったけれど、他の大多数は特権の為に命のやり取りをしている。
生きる上での選択としてその是非を論じるつもりはない。
不毛すぎて答えも出ないに決まっている。
ただ、彼女自身は自らが愛し信頼を寄せた王の為に剣を握っているのだった。
「…あぁ…」
然程広くもないが、湛えられた熱い湯に体を沈めれば気持ち良い。
冷えた手もじんわりと熱を取り戻すかのようだ。
誰に聞かれることもない安堵の溜め息が彼女の口から漏れる。
しかし、その平穏を破る者が現れた。
「、お前まァた此処来てンのか」
「!」
不意に掛けられた声に驚いて、体を庇いながら振り返る。
ざぶ、と水面が乱れて揺れた。
「ベクター様…」
ニヤニヤと自分を見下ろす目の前の男。
彼こそ彼女−が愛し信頼を寄せる王、本人である。
「…ベクター様こそ、こんなところにまでわざわざいらっしゃるとは。遣いを頂ければ部屋まで参上いたします」
「気にすんなよ。俺とお前の仲だろ?昔みたいに『にーさま』って呼んでも良いんだぜ」
「ご冗談を…。敬愛する王にそのような口を利けるほど私も子供ではなくなってしまいました」
元々の父親は前王の親衛隊の一人だった。
歳が近く、昔は本当の兄妹のように育った二人。
暴虐な前王にの父も色々なことを無理強いさせられはしたが、終ぞ職を辞しはしなかった。
ベクターもまた人知れず自我を殺していたことを知っていた。
いつか必ず父のようにこの兄のような王の助けになろうと幼い心に決意していたのだった。
そして、それはある一時期までずっと継続していたのに。
いつの頃からかベクターは人が変わったようになった。
敬愛する兄のような彼は今や前王と肩を並べる程の暴君として君臨していた。
何がベクターを狂気に駆り立てたのかは分からない。
しかし現実として豹変してしまった王を、それでもは支えているのだった。
いつか元の優しいベクターに戻ってくれるかもしれないという一縷の幽かな望みに縋りながら。
そんなの想いに気付くことはなく、裸のにベクターは冷たい視線を投げかける。
「どーせいつものビビり癖、出てンだろーが」
ベクターの指摘にはびくっと体を震わせた。
熱を取り戻し始めた指をきつく握る。
「…直ぐに収まります…」
「はっ、あっためてやろうって言ってンだよ。この俺様が!直々になァ!!」
派手な水音が石畳に響き渡った。
ざぶんとベクターの手が水面に突っ込まれたかと思うと、の腕を掴んで湯の中から引きずり揚げる。
「ベクターさまっ…!」
掴まれていない腕で裸の体を庇いながらも立ち上がり、何とか倒れ込まないように足を踏ん張った。
「ほらほらしっかり付いて来いよォ?」
「やっ…待、待って、くださ…っ」
もつれる足を引きずるようにして、容赦なく歩を進めるベクターに何とか追いすがった。
石畳にの足跡が残されていく。
言うまでもなく全裸の。
濡れた体に冷えた夜の空気が刺さる。
寒さくらいならまだ耐えられるが、暴君に裸で引き摺られていく姿は出来れば誰にも見られたくはなかった。
女の羞恥心も無くはない。
が、彼が女に無体を働くと言う姿を家臣たちに見せるのはもっと嫌だった。
「自分で歩きます…!ベクター様…!!」
しかしの声を無視し、ベクターはずんずんと居城の奥へと向かっていく。
一際荘厳な石扉を開けて現れる玉座の奥に据えられた形ばかりの執務室。
日中彼がここにいる姿をは最近殆ど見ていなかった。
それもそうだろう。
血生臭い戦場を好んでは城を飛び出す主が、こんなところに収まっている筈がない。
それでも不在の主のためにいつだってここは下女によって整えられていて、は整然としたこの雰囲気が悲しくなった。
そんな執務室の更に奥。
先程の荘厳な石扉とは違い、仕切られただけのような扉を開く。
開いた扉の奥には広い空間が黄金で飾られており、そこが王の個人的な部屋なのである。
権力の証として調度品を好む王は多い。
この部屋も王の血が続いていた年代を重ねた分だけの様相を見せていた。
それでなくとも王の私室に入ることに畏怖を感じないでもないが、の身分では到底望むべくもない品を見ると訳もなく緊張した。
なのには数日に一度はここに入っている。
この部屋の主に招かれる事によって。
「っ…」
突き飛ばすかのようにベッドの上に放り出されただったが、体に痛みを感じることはなかった。
壁や床と同じ石造りのベッドだが、流石に王の持ち物だと思う。
「ベクター様…っ」
「んン?なぁにィ?」
ニヤニヤ笑いながらふざけた返事をしてベクターもベッドの上によじ登ってきた。
そんなベクターを見ていると、自分は何を問いたかったのか分からなくなってくる。
こんなところで彼の行いを咎めたところで響きやしないという事実を突き付けられているようで。
はベクターから気拙そうに自然を逸らした。
自分の裸の足が視界に入り、ますます居心地が悪くて背中を丸める。
「…、いえ……いつも通り…夜伽のご命令と言うことでしょうか」
数日毎に呼び出される理由はいつもそれである。
初めてその命令を受けた夜に専門の女を用意すると進言した。
しかしベクターは分かっていないなと肩をすくめた。
『ハッ、誰かが使った後の女なんか要るかよ。新品じゃねェとなあ』
命令に戸惑い立ち尽くすを、ニヤニヤと足元から舐めるように眺めて言った。
男性から性の欲望をぶつけられるのは初めてのことで言い知れぬ恐怖を感じたことを覚えている。
複雑な記憶を呼び覚まされて俯くの頬にベクターの手が触れる。
「…そんなにビビってンじゃねぇよ。勃つモンも勃たなくなるだろうが」
殊更優しい声をかけたベクターはの顔を上げさせると、そっと顔を近付けた。
ひやりとしたベクターの唇がの唇を奪う。
「っ…」
敷布が二人分の体重を受けて沈み込んだ。
羽毛が詰まったクッションに背中を預け、は与えられる口吻けを必死で受け入れる。
いつまで経っても体温が重なるこの瞬間は緊張させられて意図せず体が強張った。
「ン…は…」
それでも優しく口内を探られれば緩やかに気分が解れてくる。
機嫌を取るように舌先を絡めるベクターに翻弄されながらは少し心臓が早くなるのを感じていた。
そして、ちゅう…と舌先を吸ってベクターが離れる頃には、体温の上がり始めた体を隠す事も出来ずベッドに身を沈めるがいるのだった。
「ったく、処女でもねぇくせに俺に機嫌取らせやがって」
面倒くさそうに体を離して身に着けていた衣服や装飾品をベッドの外に投げ捨てたベクターがの上に圧し掛かる。
裸の肌が触れ合う感覚は恥ずかしいが気持ちが良くて、この瞬間は嫌いじゃない。
見下ろしてくるベクターの指先がの鎖骨をなぞった。
そのままゆっくりと体の中心を辿っていく。
「あ、ん…」
どちらかと言えばくすぐったい感覚には小さく声を出した。
しかし淡い性感も感じて、の胸の先端がぷつりと膨らみ始める。
それを目聡く抓みあげるベクター。
「ひゃっ…!」
きゅうっと力を篭められて、びくっとは体を反応させる。
「まだ何もしてねぇのにこんなになってンぜ。お前は淫乱だなァ?えェ?」
「あっあっ…やぁ、あ…っ」
言いながら乳首を捏ねて刺激を与える。
言葉もさることながら、意地悪く口角を上げるベクターの表情にぞくりとした。
その瞬間を見計らったかのようにベクターの唇がの乳房にかぶりつく。
「やぁっ…!」
ぬるんとした舌が敏感に膨らむ乳首を掠めるように撫でた。
そして緩やかに円を描くようにして舌先が乳首を柔く捏ね始める。
「あぁっ!あ、はぁあ…っ!」
途端に甘く疼くの体。
しなやかな背中が仰け反ってベクターにが感じていることを伝えてしまう。
素直なの反応に気を良くしたベクターは、空いた方の胸をやわやわと揉みしだいた。
「ん、あっ!ベクター…さ、まっ…」
掌の中で形を変える感触を楽しんでいたら、が名を呼んだ。
甘く吐息混じりのいやらしい声で呼ばれるとベクターの体も反応を始める。
「クク…、カワイー声も出せるじゃねーか」
しなるの腰をきつく抱き締め、勃ち上がり始めた自身を彼女の太股に思い切り押し付けた。
柔らかなの感触を下半身で堪能する。
「ひっ…あ、あァ、っ…ベクターさまぁ…っ!」
卑猥な感触を足に感じても、きつく抱き締められているから逃げることは出来ない。
ベクターの舌に翻弄されるままに快感を享受した。
「あぁぁあ…っ、は、あ、あ…っ、あっ…」
性交渉に慣れない体は快楽を素直に感じ取り、ベクターが教えたとおりに反応する。
初めての頃から変わらない彼女の仕草や反応が僅かな愛おしさのようなものをベクターに感じさせた。
しかしそれを振り払うように殊更きつくの乳首を吸い上げて歯を立てた。
「んあぁっ!」
最早愛撫とは呼べないような乱暴な扱い。
しかしそれでもは熱に浮かされたような視線で縋るようにベクターの肩を抱き締めている。
健気なその様相はベクターを少しだけ逆撫でた。
の胸から唇を離して体を起こすと、彼女の体も腕を引っ張って起こした。
そして。
「お前ばっかりはズルいよなァ?俺も善くしてくれよ」
「…!」
ベクターの愛撫に浮かされていたの目の前に、膝立ちになった彼の男性器が突きつけられる。
男性器を間近で見るのは初めてのは顔を赤くしながら視線を彷徨わせた。
「…どう、すれば…」
「あぁ、そーか。初めてだったな。悪ィ悪ィ」
謝意を口にするベクターだが、面白そうにニヤニヤ笑っているところを見るにわざとやったのだろう。
目のやり場に困って視線を泳がせているの顎をおもむろに掴む。
「こうやってしゃぶるんだよ!」
「んうっ!」
捩じ込まれるように無理矢理男性器を口に頬張らされた。
突然の行動に息が詰まり、はむせそうになるが口内の凶器がそれすら許さない。
「っはァ…嗚呼、堪んねー…。歯ァ立てんじゃねぇぞ…!」
「う、ンぅ…ぐ…っ」
容赦なく突き立てられるそれを吐き出したくても頭を押さえられていて不可能である。
しゃぶれというベクターの命令に従い必死で舌を動かす。
「ふ、…っ、んン…っ…」
「…っ、あぁ、いーぜ…初めてにしちゃァ、上出来じゃねぇか…」
ざらざらと舌で撫で回すと恍惚としたベクターの声が降ってきた。
それは僅かな欲情の熱が篭っており、は何故か自分の体の奥がきゅうんとする不思議な感覚を覚える。
もっと聞かせて欲しくて更にしゃぶりたてた。
「く、…何だよ、食っちまうつもりか…?はァ…」
満足そうな溜め息。
の体の奥に何か甘い疼きのような熱がわだかまるのが分かる。
ちろりと視線をあげると苦しげに顔を顰めるベクターの姿があった。
その表情が扇情的で、冷たい快感がぞくっとした感覚を伴っての体を走る。
「ベクター様…、気持ち良い、のですか…?」
控え目に問い掛けるを見下ろすベクター。
そこには見たことも無いほどの欲情を湛えた目をしたがいた。
はこんなことを強要されて興奮したのか。
そう考えると逆撫でられた神経が更にささくれ立つ。
一体彼女が何に興奮したのか。
自分か。
それともこの異常な状況か。
男という生き物の性に晒されたことで欲情したのだとしたら…と考えるだけで苛立ちに血液が沸騰しそうだった。
「もういい。止めろ」
「え…っ」
突然の言葉にはびくっとして唇を離す。
やはり善くなかったのだろうか。
彼を悦ばせるに至らなかったのだろうかと質問を投げようとしたが、それより先にベクターの手がの肩を掴んで乱暴に敷布の上に押し倒した。
「っ、!」
然程衝撃はないもののベクターの突然の豹変に身を強ばらせる。
何故か怒った様子だが、一体どんな失敗をしてしまったのだろうか。
経験も知識も無さすぎて見当もつかなかった。
「テメェにはマジで苛立つぜ…」
圧し掛かりながらぼそりと呟かれた言葉には目を見開く。
ならばどうしてこんなことを…と思うが、問いかけるかを迷っている間にベクターが足を抱えあげてしまい、息と一緒に言葉を飲み込んでしまった。
「…」
慣らされることもないままに、反り返ったベクター自身がの中に思い切り打ち込まれる。
「っ、く、ァは…っ!」
息が詰まるかと思うほどの衝撃が走り、は背中を弓なりにしならせた。
掠れた悲鳴にもならない声が喉から絞り出され、浅く胸が上下する。
苦しげに顔を顰めるの目尻には生理的な涙すら浮かんでいた。
しかしそんなを目の前にしてもベクターは手を休めることはしなかった。
の腰を掴むと激しく突き上げ始めたのである。
「うあっ、あぁっ!べ、くたー…さまっ…!」
息も整わない内に腰を遣われては逃げるように体を捩った。
「逃げンじゃねぇ…!」
「やぁっ、でも…っ、あっあっ…!あはぁぁあっ…!」
体を貫き通されるのではと思う程深く到達するベクター。
狭い内壁を強引に押し広げながら、の腰に自らの腰をぐいぐい押し付ける。
先端が抉るかのようにの体の奥を刺激した。
「く、っ…は、スゲェ締まる…」
グラインドさせた腰を激しくぶつけるベクターの口許から恍惚とした呟きが漏れる。
はともすれば遠くなりそうな意識を必死で繋ぎながらただただ嵐のような行為を受け止めていた。
「ん、あ…、はぁ…っ、あぁ、ベクター様ぁ…っ」
それでもだんだんと慣れてくれば快感も生まれてくるもので。
悲鳴じみたの声色に甘い音が混じり出すのをベクターは聞き逃さなかった。
乱暴に突き上げるだけだった注挿を、意図的にの感じる箇所に当たるように変える。
途端、の体から緩やかに緊張が抜け始めた。
「んっ、あぁ…っ、はぁあ、ん…っ…」
鼻にかかった甘えるような喘ぎ声。
敷布をきつく握り締めていた手が、遠慮がちにベクターの肩を掴む。
「ベクターさま、あァァ…っ、ベクター、さ…っ、はぁっ、あはァ…っ!」
求めるかのように名前を繰り返され、ベクターは歯噛みした。
何がこんなにも気に食わないのだろうか。
ベクターは忌々しそうにいやらしく揺れるの腰を抱え込み、更に奥へと到達する。
「マジ淫乱だな!!好きでもねぇ男にっ、こんなことされてよォ!そのクセ悦んで、腰振りやがって…っ!」
「そ、んな…こと…っ!」
「違うってか!?どの口でっ、言ってやがる…!」
「やあっ、わた、私…っ!うぁっ、あぁぁっ…!」
打ち込まれる激しさには言葉を続けることが出来ない。
熱に浮かされた今なら伝えられそうなのに。
アナタが好きですと。
ずっと愛していますと。
だけど、その言葉を拒絶するようにベクターはを攻め立てる。
ぬちゅぬちゅと結合部からは愛液の溢れる音が響いていた。
ベクターの楔が打ち込まれるたびに柔らかく蕩けた内壁が震え上がる。
締め付けている自覚も無いままにはベクターに縋りついた。
「ベクター様…っ、私、も、う…っ!」
重ねる度に覚えていった終わりの予感がする。
脈打つかのように疼く体内のわだかまり。
深々と突き立てられた瞬間、弾けるような快感がを襲った。
「ーーっ!」
の足が空中を蹴り上げて痙攣する。
それに合わせてびくびくと震える膣壁が、体内のベクターをきつく締め上げた。
「く、っ…」
ベクターはこれ以上無いほどに抱えたの腰に自らの腰を押し付ける。
そして最奥に達した瞬間、遠慮なしにぶちまけた。
「っ…」
欲望が脈動と共に吐き出されていく。
体内の熱い感覚には眩暈を引き起こしそうだった。
理性を取り戻していく頭が、今夜も愛の言葉は拒絶されて終わったのだと気付かせるから。
「はぁっ…はぁっ…」
暗い部屋に荒い呼吸の音が響いていた。
いつだって嵐にも似た情交だと思う。
世の中の男女はいつもこうやって愛を交わしているのだろうか。
隣に体を沈めたベクターの手が不意にの手を握った。
どきっと胸を高鳴らせてそちらを見る。
「…ビビり癖、収まったみてぇだな」
「……はい」
握られた手には体温が戻ってきていたが、それ以上にベクターの手が暖かい。
じんわりとした安堵を感じる。
しかし、ベクターはすぐに手を放して体を起こし、自分のマントをに放り投げると。
「戻れ」
と、一言だけ告げた。
その言葉には無言で頷く。
冷たいその一言にはベクターの優しさを読み取っていた。
側室ですらないただの傍仕えの剣士であるが王の部屋から朝出てくるところを見られたらどうなるのか。
王宮内は陰謀の宝庫である。
体で地位を得たという噂が立つくらいなら我慢も出来よう。
しかし、ベクターの王としての立場を危うくする可能性が一欠片でもあるのなら避けて通らなければならない事だった。
暴虐の王であったとしても、の王はベクターただ一人だけ。
ベクターのためだけに剣を振るい、ベクターのためだけに命を散らそうと決めている。
この先彼が何処かの姫君を迎えたとしても。
永久に彼に手が届かないのだとしても。
「…失礼します」
湯殿から此処に来るまでに誰にも会わなかったことを考えると、恐らく人払いをしてくれたのだろう。
マントなんかなくとも、例えば裸で放り出したって誰にも出会うことはない筈だとは想像する。
王の高貴な持ち物を身分の低いに貸すなど考えられないことである。
しかしは畏怖を感じながらもベクターのその好意に甘えることにした。
「ベクター様、お休みなさいませ」
「……おう」
そっけない一言に礼を返し、は石の扉を閉じた。
どれくらい立ち尽くしていただろう。
脳髄の奥から波のように押し寄せる膨大な記憶に私は茫然としていると、不意に彼が口を開いた。
「今から俺を殺りやがったナッシュの野郎を始末しに行く。お前も手伝え、」
乱暴に腕を解放された。
私は視線だけを彼に向ける。
そこには召し物こそ違えど愛した王の背中があった。
「ベクター…様…」
「ボヤボヤしてンじゃねえ、グズ。また置いていかれたくねぇならついて来い」
「……」
王の言葉に無言で頷くだけ頷いた。
その間に私は言われた言葉を反芻する。
確かにナッシュと言う名前を言った。
私はその名前の持ち主のことを思い出し息を詰める。
その瞬間、王は振り返ってニヤリと笑った。
「理解したかよ」
「…はい…!」
嗚呼、どうして忘れていられたのだろう。
愛するベクター様の仇の名を。
守れなかったことも、間に合わなかったことも、何もかも忘れないと誓ったはずだったのに。
手をきつく握り締める。
この手が体温を失おうともあの男だけは必ず殺す。
誓いを新たに私はベクター様の背を追い、この世界に別れを告げた。
終
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ベクター様の口調が別人かもしれない…。
これトリップって言ったら怒られるかな。
次元の違う世界にいる(つまり現代に住む)ヒロインちゃんをバリアン界のベクター様が迎えに来るっていう設定なんですが…。
ナッシュの扱いこんなんですいません。
ここまで読んで下さってありがとうございました。